「瞳と瞳のランデヴー」 |
そのことを人に話すと、「ウソでしょう」的視線をよく投げかけられるのだが、僕は中学時代、陸上競技部に所属していた。 案の定、あまり熱心に練習に取り組むタイプではなく、個人競技特有の「拘束性のなさ」を利用して、校内・校外をフラフラしてはボーっと物思いに耽るという、絵に描いたような 「非生産的な毎日」を繰り返していた。 そんな僕でも、一年に一度や二度は練習に打ち込む時期があった。今回は、そんな中学時代のお話である。 一通りの準備運動とウォーミングアップを終えた僕は、他の短距離走メンバーより一足早く、スタート・ダッシュの練習を始めるべく、スターティング・ブロック(スタートの時の足掛け)を取りに行くため、部室へと向かった。 こういう、ほとんど奇跡的にやる気のある時というのは、たいてい何か(誰か)に刺激を受けて「よおし、オレもやるぞぉぉ!」という単純極まりないスポコン状態になっているので、「頑張っている自分」や 「走り終えてハァハァいっている自分」に酔ってしまっている場合が多い。 その時の僕も少なからずそういうナルシスティックな状態であり、とてもイイ気分で部室のドアを開けた。 すると部室の中には、陸上部の、ある女子部員が一人で立っていた。 ミドリという名前(仮名)のその女子部員はドアを開けて入ってきた僕の顔を、何も言わずに見つめている。 僕はミドリの熱い視線に一瞬戸惑い、とっさにその視線を外し、部室の片隅の窓に目を遣った。 窓はわずかに開いていて、そこから、春の午後の柔らかな陽射しと優しい風が部室の中に吹き込んでいる。 もう一度、ミドリに視線を戻すと、ミドリはやはり何も言わずに僕の顔を見つめている。 僕は心の中で確信した。 「そうか、ミドリはそこの窓から、僕がウォーミングアップをしている姿を見ていたんだな…。今まで、意識したことはなかったけど、ずっと僕だけを見つめていてくれたんだね。それで今日は、僕がここにくることを予想して、こうして待っていてくれたんだね。ごめんよ、今まで気付いてやれなくて…」 少し甘酸っぱい気持ちになり、僕は自分の視線をミドリの視線に、そっと重ねた。 「瞳と瞳のランデヴー」とは、こういうことをいうのだなあ、と僕はその時、感慨深げに思った。 視線が重なっても、ミドリは視線を外そうとはしない。 込み上げる感情を抑えきれなくなっているのか、ミドリの顔は、心持ち苦しげな表情に変わってきていた。二人きりの状況に興奮しているのか、頬が紅潮している。 「ミドリよ、もうわかったよ。君の全てを受けとめてあげるから、僕が抱きとめてあげるから、僕の胸に飛び込んでおいで、さあ飛び込んでおいで、さあ!」 と、僕が両手を広げようとした瞬間、ミドリが突然、その表情を崩した。 「ぶわっ、ハァハァハァ…」 ミドリは突然、バーゲン会場に駆け込んできたオバさんみたいに肩で息をしはじめ、さらに右手に持っていたストップ・ウォッチを目の前に持ってきて、デジタル表示に目を遣ると、今度は残念そうに深い溜息をついた。 「はあ?」 と、目がテン状態で、事態が飲み込めていない僕に、ミドリは残酷にも言い放った。 「ちょっと、秋沢!邪魔しないでよ、せっかく新記録が出そうだったのにさ、気が散ったじゃない!」 ミドリは陸上部の備品のストップ・ウォッチで、「息止め」の記録更新にチャレンジしていただけだったのだ。 一方的に甘酸っぱい勘違いをしたのは僕の方なので、怒るに怒れない。でも、笑うにも笑えない。 中途半端な表情のまま、 「そうか、悪かったな、ハハ・・・」と自信なさげにミドリに謝り、スターティング・ブロックを取りにきたことさえ忘れたまま、僕は部室を出た。 その日の練習の間ずっと、「瞳と瞳のランデヴー」という実体のない言葉が、僕の頭の中に漂っていた。 |