北海道旅行記 〜岬めぐり〜 第1章

 というわけで、最後にエッセイを書いてから、またもや長い時間が空いてしまった。

 長い間サイトをほったらかしにして何をしていたかというと、南青山にある小さな広告プロダクションでコピーライターとして働いていた。そして、04年の9月30日、およそ二年にわたる懲役を終え、めでたく「不名誉除隊」とあいなったわけだ。

 塀の中でのモロモロの話は、このエッセイの趣旨にそぐわないので、ここでは省略します。

 釈放の翌日にあたる10月1日に、僕は、丸一日で役所関係(健康保険やら年金やら)の手続きを済ませた。

 そして、10月2日(土)、さっそくサラリーマンを辞めた人の「必須科目」とも(一部で)呼ばれている「ザ・旅行」に出発したのだった。

我がコピーライター時代のデスク


 出発の直前まで、企画・広報担当として関わっている「カジュアルピアノコンサート(CPC)」の準備に追われた。というのも、コンサートが1週間後の土曜日に迫っていたのだ。

 CPCの紹介を掲載してくれた地域紙の記者と、中学の同窓生で市議会議員をやっている知人に宛てて、コンサートの招待状を書いた。

 午後1時台の東北新幹線に乗るため、東京駅を目指す。少しでも電車賃を浮かせるため、会社員時代の定期券を活用し、やや遠回りながら地下鉄を乗り継いだ。

 臆病者の僕のこと、あんのじょう早く着き過ぎ、東京駅の周辺を散策する。実は、「アムステルダム中央駅」を模して造られたという例の赤レンガの駅舎を見たことがなく(八重洲口は利用したことがあった)、丸の内口から外へ出てしかと確認した。

 ちなみにこの日は10月だというのに、台風一過で恐ろしく暑く、赤レンガの駅舎を見上げていると、陽射しがギラギラしてまぶしいくらいだった。

 オサレな丸ビルも確認し(外から)、しばらく歩くと皇居のお堀が。なるほど、やんごとなき御方の利用する側だから、赤レンガの立派な駅舎なのだ。

 しかし、田舎から上京して「これが東京か〜」と眺めるのが普通だろうに、僕の場合はこれから田舎へ向かおうとする時に初めて目にした。

 何だか微妙な感じだったが、旅の出発点として、これ以上に象徴的なものはなかっただろうと思う。


 初日の目的地は、父親の故郷である青森だった。

 大学2年の冬に祖母が亡くなった時、既に社会人になっていた兄と、大学の定期試験中だった僕は、神奈川に残り、祖母の葬儀に参列しなかった。

 いや厳密にいえば、正当な方法で休みを取ることは可能だったはずで、会社や試験を言い訳にするのは良くない。僕たちの家族、特に僕にとっては、青森の祖母は遠い存在だった。

 今はっきりとした記憶の中で「まとも」な状態の祖母と会ったのは小学生の頃の一度きりで、次に会いに行った中学生の頃には、祖母は完全な痴呆状態になっていて、実の子である父の顔すら分からなくなっていた。

 小学生の頃、祖母の家で数日を過ごして帰途に着く時、僕たちの乗った車が見えなくなるまで、本当に寂しそうな顔でこちらに手を振っていた祖母の姿が忘れられない。

 たとえ数年に一度しか会えなくても、遠くに住んでいる孫が会いに来ることが老いた祖母にとってどれほど嬉しいことなのか、幼いながらに分かった気がして父の運転する車の後部座席で泣きそうになったのを覚えている。

 そんな最後の記憶を持っていた僕にとって、父の顔すら分からくなってしまった祖母の姿は衝撃だった。そして同時に、人間の身体に宿る「魂」や「精神」といったものに強く思いをはせた。

 「魂」や「精神」といったものが、もしも肉体が滅びても決して無くならないものだとすれば、祖母の「精神」は痴呆となった今もどこかに厳然と存在し、ただインプット・アウトップットという連絡機能のみが壊れているために、外観的には痴呆という症状が現れている、ということになる。

 だから僕は、肉親であるはずの僕たちに赤の他人に接するような態度を見せる祖母に、心の中で語りかけた。コトバという手段を越えたところでなら、どこかに閉じ込められているだけかもしれない祖母の「精神」にダイレクトに語りかけられると思ったのだ。

 もちろん、それはむなしい努力に終わった。でもそれは、幼い僕が考えうる最大限のことだった。

 あの冬、祖母が亡くなったという連絡を受けた時、痴呆という苦しい肉体の呪縛から、ようやく祖母が解放されたと感じた。

 だから葬儀に参列できなかったこと、参列しなかったことは、心にずっと引っかかっていた。その後しばらくして、祖母のことを題材にした『長い冬、短い夏』という短篇小説を書いた。それは僕なりの供養でもあり、気持ちの整理でもあった。

 でもずっと、引っかかっていた。いつからか、自分に時間の余裕ができた時、最初にしなければならないのは、祖母の墓参りだと僕は心に決めていた。


 東京駅から新幹線に乗った。

 悶々とした日々の記憶の名残を感じさせる東京という街を置き去りにして、目まぐるしく変わっていく風景の中を高速で走り抜けるのは心地よかった。

 さいたま市は、遠目から見ても「新都心」という名にふさわしい街だった。新幹線の線路のすぐ脇に見えた「さいたまスーパーアリーナ」の大きさにも驚いた。

 東北地方に入ると、それまで多かった住宅地はまばらになり、山間や田園風景の中を走った。地元の人たちは怒るかもしれないが、未だ手つかずのその豊かな自然は「東北大陸」というコピーが似合う雄大さを持っていた。

 仙台に着くとかなり多くの乗客が電車を降り、その半分くらいの乗客がホームから乗り込んできた。地元の人たちがどういう感覚で新幹線を利用しているのか分からなかったが、通路を挟んだ反対側に座ったOL風の女性はおいしそうに笹かまぼこを食べていた。

 僕もコバラがすいたので、社内販売で「小岩井ミルククッキー」なるものを1箱購入し食べはじめると、これがことのほか美味く、ちびちび食べて残りはとっておこうと思ったのに結局1箱全部たいらげてしまった。

 仙台を抜けた辺りから、やや天気が曇りがちになってきた。というのも、僕が出発する2日ほど前に、季節はずれの台風が秋田・岩手のあたりを横断したばかりだったのだ。

 幸いにして出発地点である東京周辺は晴れていたわけだが、高速移動の結果、僕の方から悪天侯に追いついてしまった形になった。雨は降っていなかったが、新幹線の高架がまたぐ山間の河が濁流になっていて、ここ数日の降水量の多さを物語っていた。 

 かなりの幅があり、周辺に人の住んでいる気配のない、自然のままの河が激しい濁流になっている様は、心の奥に恐怖すら感じさせた。

 やがて電車は、終着駅八戸に着いた。以前に東北新幹線を利用した時は、盛岡が終点だった。建設中の新幹線の高架やトンネルも見えた。

 夕暮れ時にかかった八戸駅のホームに降りると、肌に震えるほどの空気の冷たさを感じた。


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