北海道旅行記 〜岬めぐり〜 第2章

 八戸駅のホームに降りた僕は、あまりの寒さに「うわあ…」と声をもらした。

 10月だというのに夏日を記録した昼の東京と、夕刻の八戸では、気温の落差があまりにも激しすぎた。

 今回の旅行を計画するにあたり「気温」は最大の懸案事項だった。出発前に、ネットの天気予報で東北や北海道の気温を念入りにチェックしてはいたものの、いかんせん出発地がギンギラ太陽なので、全くもって「北国の秋」の実感が湧かない。

 下車する際に一応警戒して上着などを羽織っていたのだが、本当に予想外の寒さだった。両手に荷物を持っているために背をかがめることもできず、そそくさと階段を登り、青森方面行き東北本線・特急に乗り換えた。

 あたりは暗くなり窓外の景色はほとんど見えない。しかし、その路線を通る時、僕は人知れず感傷的な気分になっていた。幼い頃に訪れた祖母の家からは広い畑の向こう側に線路が見え、僕と兄は八甲田山を背景に左右から列車が通りすがる光景を飽きずに眺めていた。

 特に遠目にもはっきりと分かる特急電車やブルートレインは、僕たちの心をくすぐった。祖母の家の記憶といえば、やはりその光景がまず最初に目に浮かんでくる。

 そして、僕は今、その特急電車に乗っている。時の流れを感じた。

 いくつかの停車駅を過ぎ、やがて電車は青森駅のスイッチバック式のホームに入って行った。

 『津軽海峡冬景色』で有名な青函連絡船は、青森駅のすぐ北側の港から発着していたが、連絡船の廃止に伴ない、現在では函館など北海道へ向かうフェリーは青森駅から西に数キロメートル離れた沖館の港から発着している。

 『津軽海峡冬景色』といえば、「たった2行で東京から青森まで主人公を約600キロメートル移動させた」という、作詞家・阿久悠さんの伝説的作品だが、「夜行列車」ならば新幹線を利用した僕より一層長い時間がそこに凝縮されるわけで、改めてその2行のすごさを身をもって感じることとなった。

 また、本州の北の果てであるというロケーションに加え、スイッチバック式の駅であるという構造的な部分にも、何やらもの悲しく、詩心をくすぐられるものがあると感じた。夜だから、特にそう感じたのかもしれない。

 青森駅からタクシーに乗り、初日の宿となる叔父の家を目指した。


 僕は父から「昔」の話を聞いたことがない。

 母から間接的に、父の父(つまり僕の祖父)が早くに亡くなったこと、複雑な家庭環境だったこと、それゆえに苦労をしてきたこと、などを聞いていたが、父本人は全く「過去」を語りたがらなかった。

 だから僕は、父の父(僕の祖父にあたる人物)の名前さえ知らなかった。

 父が語りたがらない彼の青春時代を詮索するつもりはなかったし、青森から出てきて神奈川に根をはった父を「初代」だと僕なりに認識し尊敬していたから、そこから上の系図には何の興味もなかった。

 ただ、今回の青森行きは「祖母の墓参り」がメインテーマであり、供養をする相手について一通り知っていることは重要なことだろうと思っていた。

 叔父の家で郷土料理のもてなしを受けながら、「昔」の話を聞いた。祖父が死んだのは父が中学生・叔父が小学生の頃だった。複雑な家庭環境の要因は「家」というものの格式が今よりもずっと重かった時代が生んだ悲劇だった。

 弟の視点から語られる叔父の話は、二人兄弟の弟である僕の立場と自然と重なってきて、不思議な実感をともなって映像化されていくようだった。

 父と叔父はやはり兄弟だから趣味が似ているのか、部屋の中にある家具や調度品が我が家にあるものとよく似ていた。

 叔母に案内された寝室は結婚して家を出ていった従姉の部屋だった。床に着きながら、問題の複雑な系図を手帳に一応書き出してみた。しかし、それを誰に伝えるつもりでもなかった。神奈川に帰って、父に報告するつもりもなかった。兄にも母にも。

 ただ、自分の身体の中に流れる「歴史」の一端を確認することはできたと思った。逆にいえばそれ以上のことは何も分からなかったし、話を聞く限りでは、僕たちが現在の姓を名乗っている正統性さえも怪しい。

 祖父・祖母をはじめ事情をよく知る人間が死んでしまった現在では、正確なところを調べることは、もう不可能だと思う。

 ただ、「血の流れ」から開放されることによって、自分の存在というものを捉えやすくなったような気がする。どこで誰のどんな血が混じって、今の自分の血肉を形成しているのか分からないが、間違いなく今日に至るまで途絶えることなくリレーされてきた血なのだ。それは尊い。

 確かなことなど何も分からない(はずの)「血の流れ」に拘泥して、不当な差別を繰り返す人間が多くいる世の中にあって、そんなこだわりから必然的に放り出されてしまった事実は、むしろある種の快感を覚えさせた。

 そんなことを考えながら、旅の一日目は終わった。


 10月3日(日)の朝、青森は雨だった。

 昨日は夜間に着いたので、外の景色を見ることはできなかった。防寒用に2重になったガラス窓を開けると、隣りの空き地の雑草や砂利が濡れているのがはっきり分かった。雨の雫も見える。

 予報では降らないと言っていたので、驚いた。今日は祖母の墓参りを予定していたので、雨が強くなってしまうと厄介だった。

 しかし、朝食を終えて出かける頃には、雨はやんでいた。

 叔父の運転する車で祖母の墓を目指した。青森市の中心地から三十分ほど走ると、青森市内で最大級の丸山霊園に着いた。

 南青山での会社員時代、青山霊園は僕の散歩コースだった。青山霊園も抽選などで当たらないと「入る」ことができないそうだが、丸山霊園も同様らしい。丘の上に立つ仏舎利塔の辺りから、青森市内を見下ろすと「アスパム」と呼ばれる観光物産館やベイブリッジが見えた。

 丸山墓地には、版画家の棟方志功の墓があるらしく、所々に立つ案内板を頼って墓石を見つけた。素通りするのも不粋なので、手を合わせた。

 祖母の墓は、丸山霊園から少しはずれた寺の墓地にあった。周りには、比較的新しい墓石が並んでいた。「空き地」も多くあった。新しく拓かれた霊園のようだった。

 辺りは静かで、朝方の雨に濡れた緑の匂いが気持ちを落ち着かせる。車道からも離れているので、車の走る音さえ聞こえない。鳥のさえずりがしている。

 僕は祖母の墓石に向かい、葬儀に参列できなかったことを詫び、父・母・兄そして僕を見守ってくれるように祈った。

 痴呆という病に閉じ込められていた祖母の魂がそこにあった。明け方に降っていた雨が叔父の家を出る時には止み、その雨に濡れて広がった草の匂いがここに立つ僕を穏やかな気持ちにさせてくれていた。

 都会のギスギスとした空気から逃れるようにやってきた北国で、僕は目には見えない大きな存在と優しさを感じた。いつまでもそうした磁場の中に漂っていたいように僕は感じたが、やがてすぐに旅立たなければならないのも宿命だった。ここからまた、新しい旅がはじまるのだ。

 僕は最後に、すがすがしい空気で深呼吸をして、祖母の墓を後にした。


 丸山霊園からほど近くに、縄文遺跡として全国的に有名な「三内丸山遺跡」がある。

 叔父の運転する車で、遺跡を目指した。有名な遺跡ではあるが、やはり地元の人はそう頻繁に訪れるわけではないようで、叔父も叔母も「縄文時遊館」という立派な博物館様の建物ができてから丸山遺跡に来るのはこれが初めてだったようだ。

 ほぼ円形の集落跡は、この場所に野球場を建設する際に発掘されたという。叔父と叔母が前に訪れた時には、あちらこちらが穴だらけだったらしい。

 現在では、竪穴式住居跡や掘立柱建物跡、土抗墓などがプレハブ小屋をかぶせる形で保存されていて、建物についてはできる限り当時に近い材料で復元されている。地層の中に石器が埋まっているのが見える有名な「南盛土」は、ガラス張りで保護された状態で展示されていた。

 大型掘立柱建物の復元されたものは、かなりの存在感があり、真下から見上げると思わず「ははぁ〜」とヒレ伏したくもなってしまうような威圧感があった。

 この集落がどのような仕組みで運営されていたのか知らないが、司祭か何かカリスマティックな人物が「神」を媒介にした支配体制をしいていたのではないだろうか。

 発掘された土器などを博物館風に展示している展示室で印象的だったのは、祭り(儀式)の時に使われたと思われる髪飾りや耳飾りといった類のものだ。

 土の中から発掘されたものだから実物は薄汚れているが、説明のためのカラーのイラストが掲げられており、そこにはカラフルな髪飾りを着けて「ウキウキしている」縄文スタイルの女の子の絵が描かれていた。

「ああ、なるほど。こういう感じだったんだろうな」と僕はつぶやいた。

 どうも古代の遺跡などを見ていると、「薄暗い(モノトーンの)原始時代」という先入観が入ってしまうのだが、人間の基本的なところは変わっていないはずで、祭りとなれば着飾っただろうし、オシャレをすればウキウキもしただろう。

 ところで、これは後から調べたことなのだが、本州は大陸から流入してきた稲作文化の影響で、縄文時代から弥生時代に移行するわけだが、北海道は縄文文化の流れを引き継ぎ、続縄文・擦文と独自の文化をリレーし15世紀には「アイヌ文化」を形成する。

 で、その「アイヌ文化」のルーツであると思われる「古代アイヌ語」は、北は南樺太、千島列島、そして南は北東北地方までがその勢力圏になっていたとされる。<「アイヌ民族の軌跡」(山川出版社)>

 とすれば、稲作文化が本州に伝播する以前、北東北に存在した縄文集落である三内丸山遺跡に住んでいた人々は、「古代アイヌ語」を使っていた可能性がある。三内丸山の縄文文化は、むしろアイヌ文化の方に強い連続性をもっているのかもしれない。

 展示室で、縄文スタイルの女の子のイラストを見た時、何故か妙に印象的だったのは、後で北海道に渡った際に触れることになる「アイヌ文化」につながる「何か」を直感的に感じたからかもしれなかった。

 三内丸山遺跡を後にした僕は再び叔父の車で青森市内に戻り、昼食をとった後、いよいよ北海道に向かうフェリーに乗るべく、沖館の港に向かった。


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